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昨日、いろいろムカつくことがあって、
結構寝れなかったりしたんだけども、
友達に紹介してもろたいろいろ見てもらえる先生の所へ行って
話を聞いてもろたら
「その人たちと同じ土俵で戦う生きかたとは
違う生き方を考えないといけない」
と言われ、
「負けて勝つ」
とかいろいろ言われまして・・・耳が痛かった。
いろいろいやなことをしている人たちも
そのいやなことをしていることが修行の場で、
そのつけを払うことで、
(たとえばちょっと良くないな、って方法で成績を取っている人とか)
その人たちがよくなれば、
それはその人たちの人生にとって
必要なことなんだって。
要するに自分のしたことは自分に返ってくる、
それが正しいことであっても悪いことであっても
必ず返ってくる。
とのことで、
なるほど、と思った。
罰するのは自分自身なんだろうな、と何となくわかったよ。
この一年、いろいろな人を見てきて、
やっぱり、つけを払わないといけない人は
払ってきたのを見てきたし、
テレマの仕事は
意外にそういう入れ替わりが激しいので、
人生、そんなもんなんだろうな、とは
思ったりする。
善悪、というのは
人間社会の常識であって、
その常識がすべてではない。
とのことだった。
確かに人間の常識ほど当てにならないものや、
ちっぽけなものはないのであって、
常識を超えたところに
本当の感動が存在することを
ウチは忘れていたんかもしれん。
宗教的な話ではないけれども、
最近、自分の生き方の在り方とか、いろいろ考えたり
会社の方向性とか、納得いくことや、そうでないことや、
周りにいろいろありすぎて、
自分の中で
消化不良になっている状況で、
常識、という言葉にしがみつきすぎていたのかもしれない。
人間一人ひとり、違う、
その人の個性が全て常識を持っているとしたら、
ウチの常識とその人の常識は
全然違っていることもあり得るのかもしれんしね。
東京時代、一つの目的に向かってやっていた時とは
明らかに違う職場環境で、
いろんな考え方で
金さえ取れたらどんな受注でもいい、
受注今月だけ挙げて、首にならなければいい、
色々文字だけとか、話だけとか聞けば
非常識だと思われることもあるし、納得のいかないことも多いけれど、
それがその人の常識なのなら、
仕方のないことなのかもしれない。
ウチはそんな人にならなければいいのだと、そう思った。
人のレベルを自分の物差しで測るのではなく、
その人自身が測っているのだ、とこれから思うように
していこうと思った。
限界は人一人ひとりに必ずあるもので、
その限界を超える努力をどうするかで、
今後どれだけ生きられるかわからないけれども
戦うだけの生き方は卒業する時がきているのかもしれん、
と思ったり。
やはり思ったとおり、
自分の前世もずっと戦っていたらしい。
別な生き方をしていた時もあったらしいが、
記憶の中に強烈に残っているのは
戦っている姿だけだから、
そういう生き方以外の生き方を
する時なのではないか?
とアドバイスされた。
言われてみれば今回も
最初からハンデの多い人生で、
子供の時から争いつづけて目の前の敵をたたきつぶさないと
やられてしまう人生やったから、
この生き方で慣れている、といえば
慣れているから、ほかの生き方といわれても
ちょっと慣れるのに時間がかかる面もあるんやけれども、
今回生きる、ってことは
それを勉強することらしい。
確かに四国に帰ってきて出会う友達は
今までの友達とは違って
戦闘的な人たちではないですね。
と話すと、
卒業する時が来ているんですよ、
と言われて、
そうなんかいな?
と考えてしもうたわ。
今後どんな考え方に自分の生き方をまとめるんか
まだ頭の中が定まっていないけれども、
今日はいい経験になった気がする。
結構寝れなかったりしたんだけども、
友達に紹介してもろたいろいろ見てもらえる先生の所へ行って
話を聞いてもろたら
「その人たちと同じ土俵で戦う生きかたとは
違う生き方を考えないといけない」
と言われ、
「負けて勝つ」
とかいろいろ言われまして・・・耳が痛かった。
いろいろいやなことをしている人たちも
そのいやなことをしていることが修行の場で、
そのつけを払うことで、
(たとえばちょっと良くないな、って方法で成績を取っている人とか)
その人たちがよくなれば、
それはその人たちの人生にとって
必要なことなんだって。
要するに自分のしたことは自分に返ってくる、
それが正しいことであっても悪いことであっても
必ず返ってくる。
とのことで、
なるほど、と思った。
罰するのは自分自身なんだろうな、と何となくわかったよ。
この一年、いろいろな人を見てきて、
やっぱり、つけを払わないといけない人は
払ってきたのを見てきたし、
テレマの仕事は
意外にそういう入れ替わりが激しいので、
人生、そんなもんなんだろうな、とは
思ったりする。
善悪、というのは
人間社会の常識であって、
その常識がすべてではない。
とのことだった。
確かに人間の常識ほど当てにならないものや、
ちっぽけなものはないのであって、
常識を超えたところに
本当の感動が存在することを
ウチは忘れていたんかもしれん。
宗教的な話ではないけれども、
最近、自分の生き方の在り方とか、いろいろ考えたり
会社の方向性とか、納得いくことや、そうでないことや、
周りにいろいろありすぎて、
自分の中で
消化不良になっている状況で、
常識、という言葉にしがみつきすぎていたのかもしれない。
人間一人ひとり、違う、
その人の個性が全て常識を持っているとしたら、
ウチの常識とその人の常識は
全然違っていることもあり得るのかもしれんしね。
東京時代、一つの目的に向かってやっていた時とは
明らかに違う職場環境で、
いろんな考え方で
金さえ取れたらどんな受注でもいい、
受注今月だけ挙げて、首にならなければいい、
色々文字だけとか、話だけとか聞けば
非常識だと思われることもあるし、納得のいかないことも多いけれど、
それがその人の常識なのなら、
仕方のないことなのかもしれない。
ウチはそんな人にならなければいいのだと、そう思った。
人のレベルを自分の物差しで測るのではなく、
その人自身が測っているのだ、とこれから思うように
していこうと思った。
限界は人一人ひとりに必ずあるもので、
その限界を超える努力をどうするかで、
今後どれだけ生きられるかわからないけれども
戦うだけの生き方は卒業する時がきているのかもしれん、
と思ったり。
やはり思ったとおり、
自分の前世もずっと戦っていたらしい。
別な生き方をしていた時もあったらしいが、
記憶の中に強烈に残っているのは
戦っている姿だけだから、
そういう生き方以外の生き方を
する時なのではないか?
とアドバイスされた。
言われてみれば今回も
最初からハンデの多い人生で、
子供の時から争いつづけて目の前の敵をたたきつぶさないと
やられてしまう人生やったから、
この生き方で慣れている、といえば
慣れているから、ほかの生き方といわれても
ちょっと慣れるのに時間がかかる面もあるんやけれども、
今回生きる、ってことは
それを勉強することらしい。
確かに四国に帰ってきて出会う友達は
今までの友達とは違って
戦闘的な人たちではないですね。
と話すと、
卒業する時が来ているんですよ、
と言われて、
そうなんかいな?
と考えてしもうたわ。
今後どんな考え方に自分の生き方をまとめるんか
まだ頭の中が定まっていないけれども、
今日はいい経験になった気がする。
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